第4章:「もう一度、赤ちゃんに会いたくて」

36歳からの再スタート

流産から少し時間が経って、身体の状態を確認するために病院を受診した。

先生は丁寧に診てくれて、

「大丈夫。もう妊活を始めてもいいよ。一度生理が来たら、再開できますよ」

と優しく声をかけてくれた。

その言葉を聞いたとき、なぜか「また赤ちゃんが戻ってきてくれる気がする」と感じた。

そして旦那さんも、この経験を通して気持ちに変化があったみたいだった。

「妊娠って、本当にすごいことだね」

「出産して赤ちゃんが生まれるって、奇跡だね」

そんな言葉が自然と出てきた。

ようやく、ふたりの気持ちが完全に一致した。

「赤ちゃんに会いたい」——それが、ふたりの共通の願いになった。

そこから、私たちは前向きに妊活を再スタートさせた。

…けれど、気づけば私の頭の中は、妊活のことだけでいっぱいになっていた。

サプリを飲んで、食事を管理して、旦那さんにも運動をしてもらって、

ネットで調べて調べて、毎月のスケジュールは“妊娠のため”のタスクで埋まっていた。

夜の夫婦生活も、完全に妊活モード。

愛情ではなく、“今が排卵日だから”という理由で行動する毎日に、

お互いがどんどん追い詰められていった。

正直に言うと、あの頃の私たちの関係は、最悪だったと思う。

私は常に焦っていて、泣いてばかりだった。

彼にもプレッシャーをかけてしまっていた。

でも、それでも「赤ちゃんに会いたい」という想いだけで突っ走っていた。

そんな時、ネットで「排卵検査薬を使って妊娠した」という同世代の体験談を読んで、試してみることにした。

けれど、それもうまくいかない月もあって、タイミングを逃すたびに自己嫌悪に陥った。

「今月ダメだったら、不妊治療を考えよう」

そう決めた月。

再び排卵検査薬を使ってタイミングをとった。

そして——なんと妊娠した。

驚きと喜びの中で、旦那さんに伝えると、彼は一言だけこう言った。

「…役目が果たせた」

私は、あぁ、彼をどれだけ追い詰めてしまってたんだろうって、胸がギュッとなった。

やっと、私たちはまた笑顔になれた。

でも同時に、前回のことがあるから、素直に「安心」とは思えなかった。

「出産までは何があるかわからないよね」

「でも、来てくれたことに感謝しよう」

そんな会話をしながら、静かに、でも確かに——

もう一度、命と向き合う日々が始まった。

 命を迎える準備と、父の病

赤ちゃんは順調に育ってくれていた。

検診でエコーを見るたびに、心臓がピコピコと元気に動いていて、

「この子、がんばってくれてるんだなぁ」と、嬉しさと感動がこみ上げてきた。

「男の子かな?女の子かな?」「名前どうしよう?」

そんな会話をしながら、妊娠生活を心から楽しんでいた。

時はコロナ禍の真っ只中。

旦那さんも時短勤務になり、普段は深夜帰宅だったのが、夕方には家にいてくれるようになった。

ちょうど私のつわりが始まったタイミングだったので、それが本当に助かった。

実は、私は結婚する前から父と2人で暮らしていた。

結婚のとき、旦那さんが「お父さんがひとりになるのは寂しいでしょ。一緒に住もう」と言ってくれて、

私たちは父との同居を選んだ。

にぎやかすぎず、安心できる3人暮らし。

もし何かあっても、誰かがそばにいてくれるという環境は、初めての妊娠を迎える私にとって大きな支えだった。

でも、父には一つ気がかりなことがあった。

コロナが広まり始める少し前、父が体調を崩し、病院で「肺気腫」と診断された。

長年働いていた会社も辞めてしまった。

そのときはまだ、私は“肺気腫”という病気についてあまり理解していなかった。

でも、今思えば、そのときすでにかなり病状は進行していたんだと思う。

コロナに感染したら命に関わるかもしれない。

私は妊娠中。父は持病を抱えている。

ふたりの命を守るために、家族全員がとにかく細心の注意を払って生活していた。

命を守る日々と、父の体調の不安

父は、ほとんど家の外に出ない生活をしていた。

それでも、コロナのワクチン接種が始まったタイミングで、念のために打っておこうということになった。

その頃の父は、ちょっと歩くだけでも息が上がっていた。

接種会場の駐車場から建物までの距離、たった5分ほどの道のりに30分もかかっていた。

それくらい、体力は落ちていた。

「大丈夫かな…」

正直、とても心配だったけど、本人は「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。

その言葉に、どこか安心していた自分もいた。

でもきっと、心のどこかでは「このままじゃ危ないかも」と思っていたのかもしれない。

「大丈夫」と言っていたけれど

ワクチン接種から3週間ほど経った頃、父の体調が崩れはじめた。

咳がひどくなり、食欲も落ちて、見るからにしんどそうだった。

でも、父はもともと我慢強くて、弱音をまったく吐かない人だった。

だからこそ、心配だった。

「明日の朝、病院に行こうね」

そう言って、その日は眠りについた。

突然の倒れ込み、救急車の決断

翌朝、父の様子を見に行くと、ベッドで静かに横になっていた。

「どう?起き上がれそう?」

「そろそろ病院行こうか」

声をかけると、父はゆっくりと身支度を始めた。

トイレに行ったのがわかったので、「出てきたタイミングで朝ごはんいるか聞こう」と思って近づいた。

そのときだった。

――父が突然、倒れ込んだ。

一瞬、何が起きたのかわからなかった。

でも「これはただ事じゃない」と、すぐに救急車を呼んだ。

意識はあった父は、「救急車なんて、呼ばなくていい」と言ったけど、

どうしても不安で、どうしても怖くて、その言葉を振り切って通報した。

搬送先は、これまで通っていた病院ではなく、少し大きな病院を選んだ。

なんとなく、その方が安心な気がした。

入院と、希望を信じた時間

こうして、父の入院生活が始まった。

だけどその時は、どこかでまだ信じていた。

「すぐ元気になって戻ってきてくれるはず」って。

そのときは7月。

私は妊娠6か月、赤ちゃんは11月に生まれる予定だった。

「がんばって元気になってね」

「赤ちゃんが生まれたら、お世話手伝ってね」

そんな会話を、当たり前のようにしていた。

このとき父は肺炎になっていた。

コロナ禍ということもあり、病院への面会は一切できず、必要な物があった場合は病院から連絡が来るというシステムだった。私たちはその連絡を受けて物を届けたり、主治医の先生からの電話で父の病状を知ることができた。

それでも、私は仕事の合間をぬって毎日父に電話をかけていた。

たわいもない会話をするだけでも、父の声を聞けると少し安心できた。

ある日、父はこう言った。

「もう熱も下がってきたし、食事も取れるようになってきたよ」

その言葉に、ようやく少しだけホッとしたのを覚えている。

食事ができないという現実と、誤嚥性肺炎

けれど、そんな矢先のことだった。

主治医の先生から診察の報告として連絡が入り、父が「誤嚥性肺炎」になっていることを知らされた。

「え…誤嚥性肺炎って何? そんなに大変な病気なの…?」

私は恥ずかしながら、当時この病気が高齢者にとってどれほど命に関わるものかを全く理解していなかった。

先生は落ち着いた口調で説明してくれた。

「お父様の場合、もともと肺気腫があって体力も落ちています。誤嚥性肺炎になると、食事を口から摂るのが難しくなり、命に関わる可能性もあります」

…言葉が出なかった。

その日から、私の中にずっと重たい不安がのしかかるようになった。

面会もできない、直接顔を見ることもできない。

どれだけ心配しても、ただただ電話や報告を待つしかできなかった。

ただ電話で話した時は受け答えもしっかりしてなんとか乗り越えてくれそうなんて思っていた。

現実を突きつけられた転院の日

入院してから、そろそろ1か月。

病院側から「そろそろ転院を検討してください」と案内があった。

ケアの方と相談した結果、やはり父が元々通っていた呼吸器専門のある病院のほうが安心だということで、そちらに戻ることになった。

「久しぶりにお父さんに会える」

そう思うと、どこかホッとした気持ちもあった。

でも実際に父と対面した瞬間、現実を突きつけられた。

痩せ細り、骨と皮だけになった体。

顔色も悪く、息も絶え絶えで――

思っていたよりも、はるかに衰弱していた。

…こんなに、なってたんだ。

心が追いつかなくて、胸がぎゅっと締め付けられた。

だけど、目の前の父の前で不安な顔は見せられなかった。

延命治療、命の選択を迫られるということ

転院手続きのあと、看護ケアの方と今後の方針について話した。

その中で突然出てきたのが「リビングウィル」の話。

延命治療を希望するかどうか――そんな選択を今、私たちがするという現実。

「…お父さん、もう長くないんだ」

頭の中が真っ白になった。

だけど逃げずに、ちゃんと父とも話して、書類にチェックを入れていった。

延命治療につながる処置はすべて拒否するという決断。

でもその後、主治医との話でまた心が揺らいだ。

「胃瘻を使って体力が戻ったら、また嚥下訓練もできます」

「治る見込みがあるなら…それって延命じゃないのかも?」

そう思った私が質問すると、先生はこう返した。

「諦めるんですか?」

その言葉に、また迷いが生まれた。

私は父の命の長さを、ここで決めてしまっているのか――

そんな責任の重さに押しつぶされそうだった。

泣きたいけど、泣けなかった。

その夜は、そわそわしてほとんど眠れなかった。

夜中3時の電話と、決断のとき

深夜3時。

スマホが鳴った。

「お父様の容態が急変し、心臓マッサージを行っています。

リビングウィルには不要とありますが、転院直後のためこのまま続けてよいですか?」

体が震えた。すぐに病院に向かった。

父の心臓は再び動き出していたけど、意識はもう朦朧としていた。

「もう…ビックリするやん」

泣きながらそう伝えたけど、父はよくわかっていない様子だった。

妹や弟にも連絡し、家族で集まって話し合いをしたけれど、簡単には結論が出なかった。

そんな時、看護師さんが本当に親身になって相談に乗ってくれた。

立場上言いにくいことも、私たちに分かるように丁寧に伝えてくれた。

私たちが出した答え

父の状態で「頑張って」とは言えなかった。

赤ちゃんを抱っこしてもらいたい気持ちは、心の底からあったけれど――

現実として、それはもう難しいのだと受け入れることにした。

「ありがとう」って伝えられるタイミングがあるうちに、しっかり向き合おうと思った。

面会禁止の中での、最後のとき

コロナ禍だったため、父が入院していた病院も例外なく、完全な面会禁止だった。

あの日、危篤の連絡を受けて妹や弟が駆けつけてくれたけど、後から看護師長さんに「病院のルール違反です」と注意された。

たしかに、現場の緊張感も理解できる。

でも――

「残りわずかな命の家族に会いたい」という想いさえ、どうして許されないのだろう?

悔しくて、やるせなかった。

妊娠検診と、父の病院からの呼び出し

8月31日。

父が危篤になってから、ちょうど3週間後。

病院から「今の状態についてご相談したい」と呼び出しがあった。

この日はたまたま妊娠糖尿病の検診があり、私は仕事をお休みしていた。

検診は午後からだったので、午前中に父の病院へ向かった。

父との、最後の対話

病院に着くと、空気はぴりついていた。

でも先生が「少しだけならお父様に会って帰っていいですよ」と言ってくれたので、病室に向かった。

前回よりもさらに痩せ細り、顔色も悪く、息もか細くて――

心が締めつけられた。

「どう?しんどいよね。なかなか電話もできてないけど心配やで」

そう声をかけながら、妹に渡されたアルバムを父に見せた。

父は、なんとも言えない表情でアルバムをじっと見つめていた。

…と思ったその時。

突然、父が怒鳴った。

「オムツ替えるように、さっさと言ってこい!治療もするって先生が言ってたやろ!」

え?どうしたんやろ?

普段は温厚な父が、いきなり怒るなんて。

私は混乱しながら、急いで先生を呼びに行った。

先生はすぐに父の様子を確認して、静かにこう言った。

「実は、尿も出ていません。ここ2〜3日が山かもしれません…」

「もし会いたい人がいるなら、今のうちに会ってもらってください」

そう配慮してくれた。

私は、午後に妊婦検診が控えていた。

そのことを先生に伝えて、一旦病院をあとにすることに。

父にも「また来るからね」と声をかけた。

それが、父との最後の会話になった。

病院からの電話と、間に合わなかった別れ

検診の病院に着いたそのとき。

父の病院から、再び電話がかかってきた。

「お父様が危篤です。すぐに来ていただけますか?」

つい、さっきまで話していたのに――。

信じられなかった。

どうか、間に合って。

その一心で、車を走らせた。

でも病院に着いたとき、父はもう息を引き取ったあとだった。

最期を看取れなかった後悔

1人で逝かせてしまった。

今まで育ててもらったのに、最期の瞬間に間に合わなかった。

このとき私は妊娠9か月、赤ちゃんが生まれるまで、あと2か月だった。

お腹の中で命が育っているのを感じながら、父の命が静かに終わってしまったことが、どうしても受け入れきれなかった。

このことは、今でも心の中に大きな後悔として残っている。

どんなに悔やんでも、戻れないあの時間。

でも、きっと父はわかってくれていると信じたい。

次回:「命を迎える準備」へ続きます

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